「まぼろしチャンネル」の扉へ
「番組表」へ 「復刻ch」へ 「教育的ch」へ 「東京カリスマch」へ 「日曜研究家ch」へ 「あった、あったch」へ 「再放送」へ 「ネット局」へ
リメンバー昭和脇役列伝
ポップス少年黄金(狂)時代
オヤジが娘に語る“テレビむかしむかし”
懐かしデータで見る昭和のライフ
僕のダイヤモンド・デイズ
まぼろし通販百科
あやかし動物園
秘宝館

「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

縁側

第33回 サッシが変えた夏の宵


 小学校に上がる前、小生は平屋の木造家屋に住んでいた。夏の夕刻、庭に打ち水をし、寝室に蚊帳を吊り、宵になるとその中に入った。縁側越しの夜風は涼しく、風に揺れる蚊帳地を面白がって弟と蹴り合い、やがて疲れて寝入ってしまうのが日課だったが、小生にとって蚊帳越しに聞く蚊の羽音は子守歌のようなものだった。
 後に、新興住宅地に引っ越したが、そちらの家には網戸付きのサッシが入っていたため、蚊が室内に入ってくることはなくなった。蚊帳はお役御免となり、捨てられてしまった。更に4〜5年経つと、今度はクーラーが取り付けられ、網戸越しの夜風に代わって冷房の風が暑さに火照った体を冷やすようなった…。
 昭和30年代末から50年代にかけて日本の夏の宵の姿は大きく変わったが、その立役者となったのが「サッシ」だった。今回の昭和のライフでは、このサッシについて取り上げようと思う。
 
1.国産サッシの誕生

 サッシ(Sash)とは英語の「Chassis(シャシー)」から生まれた新語で、「ガラスを支える骨格」という意味合いがある。その起源はヨーロッパの教会で用いられるステンドグラスの枠にあるといわれ、日本では幕末の文久元年(1861)、長崎製鉄所(造船所)の建屋に使われたのが最初という。19世紀末から20世紀初めにかけて英米で近代的で本格的なサッシが開発されるが、日本ではこれを輸入し、日本銀行本店(東京・日本橋本石町。明治29年竣工。設計・辰野金吾)を初めとする洋風建築に取り付けていった。
 明治末から鉄筋コンクリート構法が普及し始めると、スチールサッシ(鋼製窓枠)の需要が増大、国内の建築専門家や関係者の間からは国産化を望む声が上がった。巣鴨製作所(現・日本建鐵)の田島壱号はそれに応え、辰野金吾の協力を得て、大正3年の春に国産化第1号を世に送り出した。奇しくもその年の夏に第一次世界大戦が勃発したことから、サッシの輸入が途絶え、輸入品から国産品への切り替えが進んでいった。新規参入する企業も相次ぎ、関東大震災以降昭和10年代初めまで、サッシ業界は販売合戦、新製品の開発に明け暮れた。しかし、第二次大戦が始まると、各メーカーは軍需工場へと姿を変え、空襲、疎開により生産能力を大きく失うことになる。

2.サッシ大量生産時代の幕開け

 戦後、物資不足から不要不急の建築物をつくることが事実上禁止されたため、サッシメーカーは鍋、釜、日用品を作って糊口をしのがざるを得なくなった。その中で前途に光明を与えたのが、米軍関連の仕事だった。昭和25年に朝鮮戦争が起こると、沖縄の米軍関連施設の拡張が図られ、航空機格納庫、弾薬庫、病院、兵舎向けに大量の鋼製サッシ、ドアの注文が舞い込んだ。これをきっかけに、各社はサッシ専業メーカーとしてやっていけるようになった。技術面では、防錆のために新たな塗装技術の開発、「上げ下げ窓」や「はめ殺し窓」に代わって「引違い窓」が登場するなど、この年からサッシ業界は新しい時代へと突入した。昭和22年に任意団体として設立された「日本サッシュ協会」(34年に「サッシ」に名称変更)は29年5月に社団法人化され、製品の規格化・標準化に努めた。日本住宅公団がサッシを木製から鋼製に替える動きを見せるようになると、協会関係者が建設省や公団に赴き、廉価引違いサッシの規格案を提出、30年12月には公団の規格として採用させた。これは32年のサッシとドアのJIS規格制定へと繋がり、サッシの大量生産、低価格化へのはずみとなった。
 この時期、業界をリードした企業は三機工業だった。同社は、他社に先駆け昭和24年にスチールサッシの標準規格化を検討する委員会を社内に作り、試行錯誤の結果、31年に「6Sサッシ」というヒット商品を発表した。当時最も求められていたアパートに使用されている窓寸法を調査し、サッシの断面、仕様、寸法を全て標準化、大量生産によって製造原価を引き下げるとともに、営業形態をメーカー直販から代理店制度に切り替えて全国に販売網を構築、全国一律の製品価格表を設定して注文製品のような複雑な積算を不要にすることにより、営業経費を大幅に削減した。その結果、製品価格を従来の4割安にすることができ、6Sサッシは発売後3年足らずの間に月産2万セットの大台を突破、従来のスチールサッシ市場では想像もつかない大ベストセラー商品となった。当時サッシ市場は年間100億円市場といわれ、そこに約500社の中小メーカーがひしめいていたが、6Sサッシの出現により、業界は「マスプロ・マスセール」時代へと突入していった。

3.アルミサッシの時代へ

 6Sサッシのヒットをきっかけに、同業他社もスチールサッシの生産設備を増強し、昭和30年代にスチールサッシは黄金時代を迎えることになる。しかし、足下では早くも次の変化が起こっていた。昭和30年代初頭、サッシ先進国のアメリカでは、アルミサッシがスチールサッシにとって代わりつつあった。アルミを押し出して作るアルミサッシは、気密性・防音性に優れ、表面処理を施すことにより腐食の心配がほとんどなかった。スチールサッシの場合は定期的にペンキを塗り替える必要があるため、維持費も馬鹿にならない。これに目を付けた日本軽金属は昭和32年に、不二製作所(現・不二サッシ)は33年に、米国の建材メーカーと技術提携を結び、商品化を進めた。
 昭和30年代半ば、アルミサッシはまだまだ高級品で、ビル用はともかく一般木造住宅に取り入れる動きは少なかった。両社(日本軽金属は関連会社の日軽アルミにて製造)は技術提携先の製品をそのまま商品化したが、日本の従来の木製窓とは工法が異なるため、工務店に治具・工具の取り扱いから指導せねばならず、莫大な労力と費用を発生させてしまった。失敗に懲りた不二製作所は、これまで専門外だった木造建築の設計・施工の調査・研究からやり直し、日本に合ったアルミサッシ「ホームサッシFK」を開発、40年に発売した。寸法を従来の木造住宅に合わせて標準化し、窓の他に「テラス用引違い窓」、「防虫網戸」など種類を揃え、大量販売を前提として低価格に設定するなどした結果、売り上げは予想以上のものとなった。この成功を期に多数のメーカーが木造住宅用アルミサッシに参入、昭和40年代はアルミサッシの時代となった。


4.蚊帳から網戸へ

 ところで、蚊帳から網戸への切り替えはいつ頃から始まったのであろうか?
 昭和20年12月、GHQは日本国政府に対して占領軍の家族用住宅約2万戸の建設を命じた。この家族用住宅は「デペンデント・ハウス」と呼ばれ、戦後日本の生活様式に大きな影響を与えたが、その台所の窓枠の一番外側には「インセクトスクリーン」という名の虫除けの網戸がしつらえてあった。この網戸が国産かどうかはわからないが、もしかするとこれが住宅用網戸のルーツだったのかもしれない。
 表2には昭和20年代から30年代半ばにかけての蚊帳及び蚊帳地の生産推移が示されているが、これを見ると、昭和33年以降、蚊帳地の生産が落ち込んでいることがわかる。ただ、これは蚊帳から網戸への切り替えによって減ったのではなく、蚊帳地の素材が天然繊維から合成繊維へと代わり、合繊分が統計から漏れたことによる。

 ダイニングキッチンなどに代表される最先端のライフスタイルをいち早く取り入れ、常に時代を一歩リードしてきた「団地」。その公団住宅でも、昭和37年頃までは部屋の四隅にL字型の蚊帳吊り用の吊具が備えられていた。網戸への切り替えはそれ以降のことらしく、一部の団地では金属製の網戸が使われていたという。団地に今見るような合成繊維を張った網戸が登場したのは昭和40年頃。当時は、カビ・バクテリアに強い、吸水性がない、燃えにくいなどの理由からサラン繊維(塩化ビニリデン系繊維)の網が使われていた。木造住宅でも前掲の「ホームサッシFK」が登場するのが昭和40年なので、蚊帳はこの頃から本格的に網戸にとって代わられ、斜陽商品となったようだ。
 昭和40年7月15日付の『朝日新聞』(朝刊)7面には、「売れなくなった蚊帳」という記事が出ている。それによると、蚊帳の全国生産量は昭和35年に約3百万張あったのが、40年には約百万張に落ち込み、東京のとあるデパートでは最盛期(6、7月)1日当たりの蚊帳の売れ行きが昭和40年には10張前後と、4、5年前の1日50張から大幅に減少、その一方で、価格は、問屋が販売が減ることをあらかじめ予測して産地への発注を3割近く抑えたために、値崩れしていないという。少なくとも昭和40年より前、昭和30年代末には、関係者の間に蚊帳が売れなくなる予兆があったのだろう。
 アルミサッシは、表1にあるように、昭和40年代に売れに売れた。それに伴い、網戸の普及率も、昭和50年頃には、市街地住宅で20%未満、高層団地で20〜30%、中層団地で60%以上に達したという。(団地サービス調べ。『朝日新聞』昭和50年8月20日付朝刊13面)新築の木造住宅・プレハブ住宅に限ってみると、網戸の取付率は、51年時点で86.3%、60年で95.0%、平成3年には98.7%となっていた。((社)日本サッシ協会調べ)

5.サッシとクーラー

 部屋の中の限られた範囲でしか蚊を防げない蚊帳とは違い、網戸の導入により、室内全体から蚊を排除できるようになり、夏の暮らしは快適になった。しかし、不便になった事もある。網戸によって窓からの風通しが悪くなり、室内の涼しさが半減したのだ。それを補ったのが、クーラー(ルームエアコン)だ。昭和30年代の「電気洗濯機」、「白黒テレビ」、「冷蔵庫」のいわゆる「三種の神器」に代わり、昭和40年代には「クーラー」、「カラーテレビ」、「カー」の「3C」がもてはやされた。クーラーを設置するためには、室内の気密性・断熱性が確保されなければならなかったが、これにはアルミサッシが最適だった。表1に参考としてクーラー(ルームエアコン)の普及率を載せているが、アルミサッシの生産の増大を追いかける形で数値が上昇していることがわかる。
 このように戦後の住環境の改善に多大な貢献をしてきたサッシ業界であるが、2度のオイルショック・建設不況を受けて安値競争に走り、倒産・転業が相次いだ。かつて業界をリードした企業の中には異業種へと転じたところもある。
 昨今、地球温暖化の問題がクローズアップされ、冷暖房の効率的な利用が求められているが、サッシ業界では住宅の気密性・断熱性を更に向上させるために、樹脂や複合材料を用いた断熱サッシの開発を進めているという。時代の要請に常に応えて、進化を続けるサッシ。そのサッシにこれまでの感謝とこれからの期待を込めてエールを送りたい。

サッシと豚

[参考文献

(社)日本サッシ協会編『サッシ産業のあゆみ』 平成6年

小泉和子、高藪昭、内田青蔵『住まい学大系096 占領軍住宅の記録(上)』星雲社 平成11年

『朝日新聞』昭和40年7月15日付朝刊7面

同 昭和50年8月20日付朝刊13面]



2007年6月29日更新


第32回 ぼくたちの「交通戦争」2 自転車事故の戦後史
第31回 メイド・イン・ジャパンの紅茶はどこへ?
第30回 鶏卵は「物価の優等生」?
第29回 塩田は消え、また蘇る
第28回 団地の公園が子供でいっぱいだった頃
第27回 砂糖の甘くないお話
第26回 塀は世につれ〜コンクリートブロックVS大谷石〜
第25回 あなたの沢庵はポリポリいいますか?
第24回 江戸前海苔に栄光あれ
第23回 なつかしの木橋
第22回 消えていった焼玉船(ポンポン船)
第21回 夏といえば臨海学校
第20回 あこがれの「外国切手」
第19回 「台湾バナナ」は復活するか?
第18回 『大学おとし』考
第17回 渡し船よありがとう  
第16回 印度りんごはどこに?
第15回 ローティーンの放課後生活−昭和35年VS平成12年−
第14回 「裏道」がドロドロ・ベタベタだった頃
第13回 消えゆく「長十郎」
第12回 鯨肉がまぼろしに変わるまで
第11回 東京湾釣り物語「アオギス」&「クロダイ」
第10回 天然ガスで浮き沈み
第9回 「肥満児」登場
第8回 ぼくたちの「交通戦争」
第7回 サツマイモの戦後史 −芋飴・澱粉・観光いも掘り−
第6回 紙芝居屋さんと「免許」の話
第5回 バラ色だった「宇宙時代」
第4回 進化するパチンコ、何処へ行くパチンカー
第3回 麻雀が熱かった頃
特別番組 波瀾万丈ボウリング
第2回 都会っ子は「もやしっ子」?
第1回 お年玉付き年賀状の賞品移り変わり


「あった、あったチャンネル」の扉へ