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リトル・R・オノ

第18回
突然の“チューチュー・トレイン”
名古屋行き片道切符

※ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代  絶賛放送中!

ラジオ版・ポップス少年黄金狂時代(60年代こだわりのバラード)
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-29.html

第2回ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代〜前編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-26338.html

第2回ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代〜後編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-26424.html


秋の大収穫祭〜ラジオ版ポップス少年・スペシャル〜前編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-28412.html


秋の大収穫祭〜ラジオ版ポップス少年・スペシャル〜後編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-29164.html



 勉強はちゃんとやれば成績は上るんだということが分かり、期末テストの成績もよかったから、すっかり優等生の仲間入りをしてしまった。しかしそのことで厄介なことが起きてきた。二学期の学級委員長をやらされそうなのである。そういう役割はそういうのが得意なやつがやればいいのだが、一応選挙のような形で立候補者がいれば優先するがいなければ投票になる。そうすると成績のいい順に学級委員長(たいていは男子)、次が副委員長(たいていは女子)、次が何々…と決まっていくのが小学校の頃からの慣わしだった。小学生の時はだから私は目ぼしい委員になったことがなかった。いつもお気楽な身だった。それがもし委員長とかになったとしたら…と思うと憂鬱になった。人前でいろいろ喋んなきゃならないし、そういうのはトコトン苦手だったから、そんなことになりませんようにと真剣に神様に祈った。
 そんな矢先、私の思いが通じたのか、ひょんなことから回避できることになった。父親が名古屋に転勤することになったのだ。名古屋に本社を置く銀行マンの父が本社づとめになるという。大学受験を控えた高3(浪人中だったかも)の長兄だけを東京の親戚に預け、残り5人の家族は6年半過ごした東京を離れることになった。東京を離れるのは嫌だったが、学級委員長とかになるのを避けられるのならいいか、と思った。すでに小学校時代の友達ともあまり遊ばなくなったし、部活も辞めてたから家でレコード聴いてるだけだし、新しい土地に不安はあるものの、ポップスが友だちだから別にいいかと思ったのだ。転校することが知られるといくつかの教科の先生に惜しまれた。初めて自分をちょっと誇らしげに感じた。   

中一の遠足

1962年、世田谷区深沢町の自宅(社宅)前での兄弟ショット
 多分、東京を離れることが決まったので記念に撮影したものと思われる。兄より私の方が少し背が伸びたので、ツーショットのとき兄は必ず背伸びをするか何かに乗っかって身長をサバ読むのだった。いつも、「足は写さないように」と言っていたが、このときは全身撮られたのでバレバレだ。

  東京を離れる頃流行っていたのは、ちょうど前回書いた春の頃のアメリカのヒット曲が2〜3ヶ月遅れでヒットしていた。つまり「ジョニー・エンジェル」「グッド・ラック・チャーム」「ヤング・ワールド」「モスコーの夜はふけて」などである。それに加えてやはり春に流行っていた「ブルー・ハワイ」や「かわいいベイビー」「霧の中のジョニー」「悲しき女学生」「トゥナイト」などがまだチャートに残っていた。のんびりしていた時代だ。だから聞き飽きていくのも分かるでしょ?
 アメリカのチャートでは「愛さずにはいられないI Can`t Stop Loving You」(レイ・チャールズ)や「涙の紅バラRoses Are Red」(ボビー・ヴィントン)「アル・ディ・ラ」(エミリオ・ペリコリ)「シールド・ウィズ・ア・キッスSealed With A Kiss」(ブライアン・ハイランド)「恋のジェット・コースターPalisades Park」(フレディ・キャノン)「内気なジョニー」(ジョニー・ソマーズ)「スピーディ・ゴンザレス」(パット・ブーン)などが上位にいた。
 またまた甘いヴォーカルの新人が出てきたと思ったら1位になってしまったのがボビー・ヴィントンの「涙の紅バラ」だ。ちょうど名古屋に引越した時に全米1位だった記念すべき曲だ。ヴィントンを次に意識したのは約1年後、「ブルー・オン・ブルー」(63年6月3位)がヒットしその甘さと切なさに参ってしまった。するとその次が「ブルー・ヴェルヴェット」(63年9月1位)、さらに「ブルー・ファイアーThere! I`ve Said It Again」(64年1月1位)とブルー尽くしの甘く切ないヴォーカルの勢いはとどまることを知らなかった。スリー・ボビーたちを上回る最強のボビー君となった。因みにこじつけられたタイトル「ブルー・ファイアー」の次の1位曲はビートルズの「抱きしめたい」だった。まさにスウィート・シックスティーズ・ポップスの最後に相応しい曲だったといえよう。

ブルー・オン・ブルー

「ブルー・オン・ブルー」 Blue On Blue
ボビー・ヴィントン

 バート・バカラック作。甘さだけの「涙の紅バラ」に切なさが加わった「ブルー・オン・ブルー」ですっかりファンになった。我々は「ミスター・ロンリー」(64年12月1位)まで入ったベスト盤を買い、一時期ビートルズと併行して聴いていた。


内気なジョニー

「内気なジョニー」 Johnny Get Angry
ジョニー・ソマーズ

 ハスキーで歌がすごく上手い。本国ではポップシンガーというよりジャズシンガー的扱いだった。美人なのにジャケはレコード会社お得意の味も素っ気もないイラスト。アメリカでもヒットしていた(62年7月7位)のになんで写真が1枚もないのだろう、かわいそうに


すてきなメモリー日本語盤

「すてきなメモリー」 Memories, Memories
ジョニー・ソマーズ

 ねっ、美人でしょ。これは63年に日本だけでヒットした曲の日本語盤。日本語で歌ったことでも分かるようにレコード会社の期待が大きかったのだろう、他に「ウィッシング・ウェル」「恋のレッスンIf You Love Him」もヒットした。なんてったって一番は「ワン・ボーイ」だけどね。

  「アル・ディ・ラ」はイタリアが舞台のトロイ・ドナヒュー主演の映画『恋愛専科Rome Adventure』の主題歌。共演したスザンヌ・プレシェットとは63年に西部劇『遠い喇叭』でも共演し、同年に結婚した。
 当時、我々兄弟が定期的に読んでいる月刊誌が3誌あった。『ミュージック・ライフ』(新興楽譜出版社)、『スクリーン』(近代映画社)、『テレビジョン・エイジ』(四季出版)、アメリカン・カルチャーを全身に浴びたくて読んでいた(残念ながら『スクリーン』以外は廃刊)。だからクラスメイトと遊ばなくても済んだのだ。
 『テレビジョン・エイジ』はほとんどがアメリカ製の日本放映テレビ番組を紹介する雑誌で、購読のきっかけはトロイ・ドナヒュー主演の『サーフサイド6』(61年の秋スタート)だったと思う。もちろんジョニー・ワイズミューラーの『ジャングル・ジム』以来アメリカ製テレビドラマはすべて好きだったが、青春スター、トロイ・ドナヒューの出現は他のスターたちを霞ませた。サラサラとしたきれいな金髪で(モノクロだったかもしれないが)背が高くて足が長くてハンサム、当然女にモテる。こんな理想的なスターは日本人がどう頑張っても到達できない。金髪の時点でアウトだし。だから憧れた。演技の質や物語の内容などあまり関係なかった。まあ音楽の好みもカッコいいかどうかだけだったから、ローティーンの趣味としてはこんなレベルかと思う。

アル・ディ・ラ-エミリオ・ペリコリ

「アル・ディ・ラ」 Al Di La
エミリオ・ペリコリ

 ローマといえばやっぱスクーターでしょ。ノーヘルもOKのよき時代というジャケ。作曲は「夏の日の恋」のマックス・スタイナー。全編イタリア語にもかかわらずアメリカでも大ヒットした(62年7月6位)。恋人役のスザンヌ・プレシェットは当時、リズ(エリザベス・テイラー)似の大型新人女優と有望視された。カワユイ!

  『サーフサイド6』と同じワーナー・ブラザーズの『サンセット77』も好きだったが、ドナヒューの甘さに対抗できるルックスは他にいなかった。一度どちらかの番組で、二つの探偵事務所の出演者が総出となる回があった。『サーフサイド6』はマイアミが舞台、『サンセット77』はLAなのだが、二つの探偵事務所が協力し合って犯人を捜すというようなあらすじだった。すごい視聴者サービスだと興奮してみた記憶がある。
 『サンセット77』の導入部分で、「♪セブンティセブン・サンセット・ストリップ(チャッチャッ)」というテーマ音楽に合わせながらナレーションが「スターリング、エフレム・ジンバリスト・ジュニア」と言って主役を紹介するやり方もかっこよかった。「コースターリング、ロジャー・スミス」と来て、最後についでのように紹介される駐車場係?のクーキー役のエド・バーンズがいつも櫛でポマード頭をなでつけるのだが、そんなキザなキャラに設定している意味がよく分からなかった。でもそのキャラがアメリカでは受けたらしく、クーキーが髪に櫛を入れながらなにやら今でいうラップのような感じでペラペラしゃべり、その合間に「Kookie, Kookie, Lend Me Your Comb. Kookie, Kookie」と、同じワーナー・ブラザーズのコニー・スティーヴンスがささやくだけの「クーキー・クーキー」が大ヒットした(59年5月4位)。

サンセット77

「サンセット77」 77 Sunset Strip
ドン・ラルク楽団

 ジャケの上がE・ジンバリスト・Jr、右がR・スミス(小6のときに似顔絵を版画で彫った俳優の一人)、そして左がクーキーことエドワード・バーンズ。


サンセット77

「サンセット77」
原田信夫

 いましたね、この人。いつも微妙な笑みを浮かべてダンス踊りながら歌ってたっけ。テレビに出てきても、ただ眺めていて歌い終わるのを待つ、みたいな存在でしたね。

  コニー・スティーヴンスは「クーキー・クーキー」では脇役だったが、その1年後「シックスティーン・リーズン」の大ヒット(60年5月3位)をピンで飛ばす。だが日本では話題にならず、私が名古屋に引越しをした62年の冬頃に「ミスター・ソングライター」(62年43位)がラジオのヒットパレード番組でかろうじて20位以内に入ってきて、初めて聴くその声にハートをわしづかみされた。何度も聴きたくてあらゆる音楽番組を聴き漁ったが、すぐにチャート落ちし結局2回ぐらいしか聴くことができなかった。シングル買えばいいのとお思いでしょうが、女性シンガーものは兄弟ともなんとなく恥ずかしくて買うのを避けていたのだ。
 コニー・スティーヴンスはトロイ・ドナヒューと銀幕でも何本か共演し、テレビ『ハワイアン・アイ』でもクリケット役でドナヒューと共演するが、この番組は平日の夜更けの時間帯だったため見せてもらえなかった。歌手役だから歌うシーンもたくさんあっただろうに。口惜しいかぎりである。

夏の日の恋

「夏の日の恋」 The Theme From A Summer Place
パーシー・フェイス楽団

 サンドラ・ディーとトロイ・ドナヒューが共演した映画『避暑地の出来事』主題曲。爽やかさの中に酸っぱさがちょこっとあるこのインスト曲は60年、日米で大ヒットした(アメリカでは60年2月1位)。


「霧の中のジョニー」

「ルーシーのテーマ」 Lucy`s Theme From “PARRISH”
ザ・クレバノフ・ストリングス

 61年、映画『二十歳の火遊び』主題曲。コニー・スティーヴンス(ルーシー役なのにジャケには写らなかった。何故?)や、『サーフサイド6』にもレギュラー出演していたダイアン・マクベインが共演した青春映画。このシングルは当時買ったものだが、キングからの発売なのでひょっとして便乗もの?


恋のパームスプリングス

「恋のパームスプリングス」 Live Young
トロイ・ドナヒュー

 コニー・スティーヴンスが共演した映画『パームスプリングスの週末Palm Springs Weekend』の主題歌。この曲は63年から64年にかけて日本だけで大ヒットした。歌っているというよりは、大根役者の下手な語りのような歌唱だが、まあ俳優だから許してあげていた。


The Best Of Connie Stevens

『The Best Of Connie Stevens』
コニー・スティーヴンス

 数年前にCDショップで見かけ衝動買いしたコニー・スティーヴンスのベスト盤CD。とりあえず何度も「ミスター・ソングライター」を聴き返し往時の記憶を呼び戻した。ハスキー・ボイスがたまらない魅力。当時この曲のB面だったゴフィン/キング作のバラード「イヤとは言えなかったのI Couldn`t Say No」にはとろけてしまう。

 探偵モノは日本でも50年代のテレビ草創期から『日真名氏飛び出す』があり結構好きで見ていたが、日本のドラマには色気がまったくなかった。ドラマではないが『お笑い三人組』なんて主人公の三人にそれぞれ彼女がいたのに(楠木トシエ、音羽美子、桜京美)、色気はゼロだったもんなあ。その点、アメリカ製ドラマには『ジャングル・ジム』の昔から必ずと言っていいほどそれなりにちゃんとヒロイン役がいた。『サーフサイド6』に出ていたダフネ役のダイアン・マクベインなどすっごい美人でびびった。ヒカリもの系のワンピース(ミニではないが膝上スカートの裾がギザギザのデザイン)を着たスタイルバツグンの写真が『テレビジョン・エイジ』に掲載されたが(『スクリーン』だったかも)、あれは“永久保存”しておくべきだった。悔やまれる。まあそんな情報が『テレビジョン・エイジ』には詰まっていたのだ。

二十歳の火遊び

『二十歳の火遊び』 Parrish
サウンドトラック

 パリッシュことドナヒューを巡る三人の共演者がジャケに。左がダイアン・マクベイン。右上がコニー・スティーヴンス、右下が日本盤シングルに使われたシャロン・ヒューゲニー。ドナヒューもてもての図。

 名古屋に引越すからといって友人と別れの儀式めいたものは何かしたのだろうか。あれだけ誕生日会とかやったのに、別れ際に何にもしてもらえなかったのだろうか、まったく憶えていない。とにかく突然決まり、突然引越し、みたいな感じだった。憶えているのは東京にいる父方の親戚の家族がうちの家族を招待し高輪プリンスホテルに部屋を取って豪華な食事会を開いてくれたこと。たまにしか家で食べられないそれも硬い“(ビフ)テキ”と違ってめちゃくちゃやわらかいビーフ・ステーキというものを初めて味わった。同時に、緊張しながら西洋式のフォークとナイフの使い方を教えてもらった。
 夏休みが始まるとすぐに東京を離れたように思うが、引越し前に、文房具を買いに小学校前にあったいつもの文具屋に寄った。買い物を済ませようとしたら、ドキッ。K平M子が友人と二人で入ってくるではないか! うわっ。こんな近くで見るのは去年の水のみ場以来ではないか。吉永小百合にちょっと似のM子はあの時よりもさらに可愛さに磨きがかかってるじゃん! どうしょう。焦って心臓がバクバクしてきた。ああ、こんなときアメリカの少年のようにニコニコしながら「やあ、K平さん。僕のこと知らないだろうけど、今度引越すことになってね。実は前から君のこと気になってしょうがなかったんだけど、引越し先から手紙書いていいかな」とか喋れればいいんだけど、情けないことに地蔵のように固まってしまっている。勇気が欲しい! こんな偶然あるわけがなく、神様が与えてくれた最大のチャンスじゃないか!
 結局、二度と訪れることのないだろうチャンスを生かすことができなかった。M子は友人と終始にこやかに談笑しながら買い物を済ませると文具店を出ていった。残された私の頭の中では「I Can`t Stop Loving You」と「One Way Ticket To The Blues」が交互に流れていた。

吉永小百合 寒い朝

「寒い朝」
吉永小百合、和田弘とマヒナスターズ

 62年4月発売、吉永小百合のデビュー・シングル。この顔の目とマユの感じにK平M子さんは似ていた。もっと可愛かったけど。
 吉永小百合はこの年、映画では『キューポラのある街』でブレイクし、歌では橋幸夫とデュエットした「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞。歌はうまくなかったがひたむきに歌う姿に好感が持てた。



※印  画像提供…諸君征三郎さん



2009年 2月11日更新


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