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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

長十郎(千葉)
第13回 消えゆく「長十郎」

 小生が小学生の頃、秋の給食のデザートの定番といえば、梨の「長十郎」だった。また、秋の行楽で近所の梨園を訪れ、動けなくなるほど食べたのも、長十郎だった。硬い果肉をガリガリと囓ると、口いっぱいに甘ったるさが広がった。最近、ふとその事を思い出し、あの味に再会したくなって青果店を探し回ったが、長十郎はどこにも置いていなかった。一体、長十郎はどこに行ってしまったのだろう。今回の昭和のライフでは、この長十郎の消長について取り上げる。

1.「長十郎」梨の発見

 神奈川県川崎市にある川崎大師。この境内に『種梨遺功碑』という石碑がある。この碑は、長十郎を発見した当麻辰次郎(文政9年〜明治38年)の功績を記念して建てられた。長十郎が発見されたのは、明治26年のこと。川崎市の大師河原の梨農家であった当麻辰次郎が、自分の梨園で他とは違った品種を発見し、自分の家の屋号をとって「長十郎」と命名した。長十郎が世に出てからしばらくして、明治30年に梨の病気である黒星病が大流行した。ほとんどの品種が壊滅状態になる一方で、長十郎は被害が少なかったため、これ以後、病気に強い品種として栽培する者が急増したという。

川崎大師の『種梨遺功碑』

川崎大師の『種梨遺功碑』

2.長十郎の黄金時代と「二十世紀」梨の台頭

 日露戦争をきっかけに日本の鉄道網の整備が進むと、大都市近郊の県でも梨の栽培が始まり、主として長十郎が植えられた。長十郎は全国の梨栽培面積の8割を占め、黄金時代を迎えることになる。しかし、それは長くは続かなかった。大正12年頃から台湾バナナの輸入や西瓜の生産が急増、それに押されて梨の需要は頭打ちになってしまった。また、昭和2年に黒斑病という梨の病気を防ぐ技術が確立され、この病気に弱かった「二十世紀」梨の生産が一気に増えた。このライバルの台頭は痛かった。ちなみに、二十世紀は千葉県松戸市の松戸覚之助が明治21年に発見した品種で、31年に安定した栽培に成功している。当初は「青梨新太白」と名付けられたが、37年に東大の池田伴親助教授らによって「二十世紀」という新品種名が与えられると、一躍その名が全国に知られるようになり、覚之助の農園には苗木の注文が殺到した。明治の末には、鳥取県をはじめ、岡山、奈良、神奈川、東京、新潟、福島などに栽培が広がった。
 ここに、長十郎全盛の時代は終わりを告げ、両品種が勢力を二分する時代へと突入することになる。

『二十世紀梨誕生の地碑』

松戸市二十世紀が丘にある
『二十世紀梨誕生の地碑』


3.戦後の梨栽培の復興と「観光梨もぎ」

 第二次大戦中、米穀増産のために梨園を田畑へと転換する政策が取られ、梨の栽培面積は一時減少したが、昭和22年に青果物統制令が廃止されると梨農家の生産意欲が高まり、梨園の復興が始まった。(表1)昭和30年には戦前の水準まで回復し、基盤整備、共同選果場の設置、栽培技術の進歩によって、栽培面積は更に増加していった。しかし、梨の価格は高度成長期に入っても低迷を続けたため、農家は収量増加を目指すようになる。昭和初年の長十郎の収量は10a当たり3tだったが、10年には3.75〜4.1t、40年頃には4.5〜5.6tまで向上し、最高10.2tを記録した。収量の増加は、収穫の際の人手不足や更なる市場価格の低迷を招いたが、都市近郊の梨園ではこれを解消すべく「観光梨もぎ」を行うようになった。例えば、川崎市の梨農家は「もぎとり会」を結成し、レジャーブームを背景に、バス会社と提携してツアー客を梨園に呼び込んだ。昭和45年における長十郎の梨もぎ価格は1Kg当たり80円、市場価格は57円だったので4割増しで売れた計算になる。しかも収穫、出荷のための人手は不要であるので、梨農家にとってまさに「梨もぎ様々」であった。


4.新品種の登場と長十郎の衰退

 昭和34年、長十郎の地位を脅かす新品種「幸水」が発表された。(表2)見かけは長十郎と同じ「赤ナシ」だが、甘くて水分が多く、二十世紀よりも軟らかく、しかも早生種なので収穫までの期間が長十郎より短い、という特徴を持っていた。当初は果実が小さくて収量が少なく、実の形も悪かったが、最適な栽培法が確立されて収量を上げられるようになると、次第に普及していった。40年代後半になると梨もぎ客は減少に転じ、代わりに「梨の地方発送」の需要が出始めた。ここでは、長十郎より高級イメージのある幸水の方が好まれた。幸水はまず贈答品として家庭に入り込み、その評価を固めていった。そして50年以降、「おいしい梨=幸水」というイメージが定着、梨農家は長十郎の栽培を縮小し、幸水へと切り替えていった。

5.長十郎は今

 幸水は優秀な品種だが、収穫期間は2週間と長十郎の半分ほどしかない。そのため、人手不足に悩む梨農家にとって、梨園を全て幸水にすることは不可能だった。そこで、現在、早生種の幸水とともに、中生種の豊水、晩生種の新高を育てることが、一般的になっている。こうすれば、出荷時期をずらすことができるので、人手の面は解決する。また、豊水、新高とも高級品種のため、収入の面でも幸水並みの収入が期待できる。こういった状況の下、平成13年の長十郎の栽培面積はわずかに325ha、梨全体の2%と往時の面影は全くない。これでは青果店で見掛けないのも当然だ。しかし、長十郎ファンに朗報がある。一部の梨農家では、梨の人工授粉の花粉を採るために、若干の長十郎を栽培しているという。できた梨は市場に出さず、直販小屋の片隅に置いているというのだ。もし運良く手に入れたなら、あの甘ったるさを思い存分味わってほしい。今年は冷夏だったので、果肉も軟らかいはずだから。

無人販売

千葉県鎌ヶ谷市にて

[参考文献

『多摩川梨もぎとり連合会35年のあゆみ』川崎市多摩川梨もぎとり連合会 平成8年

『果樹園芸大百科4 ナシ』農山漁村文化協会 平成12年

『松戸市史下巻(一)明治編』昭和39年]



2003年9月25日更新


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