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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

第26回
 塀は世につれ〜コンクリートブロックVS大谷石〜


 小生が幼い頃いた住宅地は、古くからあったせいか、生け垣や腐らないように表面を黒く焼いた板塀、大谷石でできた塀などが多く見られた。ところが、オイルショック後に新興住宅地へ引っ越してみると、どこもかしこもブロック塀だらけで圧倒された思い出がある。今回の昭和のライフでは、そんなブロック塀と大谷石の塀の歩みについて振り返ってみたい。

1.コンクリートブロックの失墜と大谷石の勃興

帝国ホテル
帝国ホテル

 コンクリートブロックが日本に導入されたのは明治の中頃で、38年にはブロックの製造機が初めて輸入されている。大正に入ると研究が盛んになり、鉄筋コンクリート建物の柱と柱の間仕切り(カーテンウォール)としてブロックが使われるようになった。またブロックを材料にして、5階建ての建物も建てられた。ところが、大正12年の関東大震災の際にカーテンウォールが倒れ、高いビルから落下したブロックが通行人等に大きな被害を与えたことから、ブロックに対する信用は失われ、その使用は法律によってほぼ禁じられることになった。
 そんなブロックに代わって、震災後耐火建築材料として脚光を浴びたのが大谷石である。大谷石は栃木県宇都宮市西部で採掘される凝灰岩で、古くから城郭や寺社の石垣、土蔵などに使われてきた。米国人建築家F.L.ライトが帝国ホテル新館にこの石を採用し、奇しくもその新築披露式の日に関東大震災を迎えて被害軽微だったことから、大谷石の評判は一気に高まり、販路は関西方面にまで広がった。大正14年8月における価格は、6寸×1尺×3尺の「六十石(ろくとういし)」というサイズで、1本当たり1円3銭(米価を基準に現在の価格に換算すると約1365円)。大谷石の採掘は手掘りで行われ、1日に1人が切り出せる量は六十石で12本程度だったため、価格は高くならざるをえなかった。そのため、大谷石造りの建物はお金持ちのステータスシンボルとなった。千葉県の飯岡地方では今日大谷石の塀や土蔵を多く見かけるが、これは戦後の混乱期に水飴製造で巨富を得た農家が造ったものという。

飯岡にて
飯岡にて

2.コンクリートブロックの再出発と大谷石採掘の機械化

 第二次大戦後、都市復興のために不燃建築を安く造り、木材資源を節約しようという気運が高まると、コンクリートブロックが見直されることになった。建築技術は格段の進歩を遂げ、耐震性に幾多の改良が加えられた「補強コンクリート造」という新たなブロック造の形式が編み出された。ブロックの工場は昭和25年前後から全国各地に誕生したが、大小様々で、セメント瓦の工場から転業したものも多くあった。28年7月の調査によると、工場は北海道と関東に集中し、これらの地域だけで全国生産の6〜7割を占めていた。北海道は火山砂利の生産地で、道庁がブロック住宅を積極的に推進していた。また、関東は浅間、榛名、伊豆系の火山砂利の産地が近く、東京という巨大市場を抱えていた。

空洞ブロック
空洞ブロック

 表1は、昭和29年以降のコンクリートブロックの生産推移を示している。ここでいう「空洞ブロック」とは一般によく見かける穴の開いたブロックのことだが、これが塀やカーテンウォール向けにどれ位作られたかを調べてみると、昭和32年で全体の21.7%(17298千個)、33年で27.8%(26817千個)がこの分野向けだった。(通産省『建材統計年報』)残念ながら他の年のデータはないが、この時期1年間で6ポイントも上昇している。おそらく、その多くがブロック塀向けだったのではないだろうか。
 一方、大谷石にとって工場で大量生産されるブロックが建材に進出してくることは、脅威だった。大谷石は手掘りだったため、生産コストに占める人件費の割合が大きい。戦後の混乱期には失業者が多かったため人件費は安かったが、世情が安定するにつれて人件費も上昇、経営の圧迫要因となっていた。前門のブロック、後門の人件費上昇…。この問題を打開するために人力に代わってチェーンソーで石材を切り出す方法が考案され、昭和34年頃には全採石場で採用された。機械化により人件費は圧縮され、しかも手掘り時代には開発不可能と思われていた地域まで採掘できるようになって、生産量は飛躍的に増大した。表2にあるように、昭和40年の生産量は機械化前だった30年の2.6倍に達している。

3.高度成長期の明と暗

 高度成長期のブロック生産は好調そのものだった。昭和47年の年間生産量は5億7千万個に迫り、30年の27倍に達している。この間の販売単価の推移を表3で見ると、昭和39年から47年にかけての上昇率は13%と、国家公務員の初任給をベースにした同時期の賃金上昇率539%(週刊朝日編『続値段の明治大正昭和風俗史』朝日新聞社 昭和56年のデータより算定)に比べるとかなり低い値となっている。これは、ブロック産業が人手を掛けない装置産業であったことを示している。しかし、48年に第一次オイルショックが襲うと、石油産業や鉄鋼産業と同様に原材料費が高騰し、ブロックの価格は引き上げざるをえなくなった。この年のブロックの販売単価は30年の4割増し。翌年には2倍を超えている。
 一方、大谷石の生産は昭和40年以降伸び悩んだ。当時、大谷石の出荷先は東京・神奈川方面が全体の65%を占め(表2)、石材は主として高額所得者の屋敷の塀などに使われていた。ところが、昭和38年〜39年にかけて都心の富裕層の間に第一次マンションブームが起こり、43年〜44年の第二次ブームでは購入層がより下位の階層にまで広がった。富裕層の一戸建て離れは大谷石の需要にも翳りを与え、東京・神奈川方面の出荷シェアは45年に62%、47年に50%、50年には42%と急速に低下していった。また、ドーナツ化現象の進展によって住宅地が都心から周辺部へと広がり、中所得者が郊外の一戸建てを買い求めるようになると、多くは安価なブロック塀を選択したため、大谷石の需要にはプラスとはならなかった。例外的に千葉方面の出荷シェアが、昭和45年に10%、47年に21%、50年に25%と増加しているが、これは土地売却で儲けた旧地主や新興住宅地の上の下クラスの家が大谷石の塀を設けたからであろう。

ブロック塀
ブロック塀

大谷石の塀
大谷石の塀

4.宮城県沖地震を経て

 大谷石との塀競争に勝利したコンクリートブロックだが、その生産は第一次オイルショックの年をピークに現在も低下する一方だ。これはオイルショック後の長期的な住宅不振に加えて、昭和53年6月12日に発生した宮城県沖地震(M7.5)によるところが大きい。この地震では門柱やブロック塀が倒壊して14人が犠牲になり、道を塞いだブロックは避難や消防車の通行を妨げた。「地震に強い」というブロック神話が崩壊し、ブロック塀離れが始まったのだ。この地震以降、国は地震でも倒壊せず火災時には防火帯にもなる生け垣の設置を勧奨、助成金を支払う地方自治体も出てきた。そのため、住宅の立て替えを機にブロック塀を取り壊し、生け垣やフェンスにする家が増えている。また、地価高騰のあおりを受けて一戸建てが狭小化し、道路面の門塀を取り除いてガレージと玄関を一体化した造りの家も登場している。80年以上も繰り広げられたブロックと大谷石の塀勝負であるが、結果は「痛み分け」といったところだろう。


[参考文献

竹山謙三郎等著『コンクリートブロック造及び軽量コンクリート造』共立出版 昭和27年

日本セメント技術協会『最新コンクリート技術 建築編』 昭和29年

竹山謙三郎等著『ブロック建築入門』日本コンクリートブロック協会 昭和30年

相澤正行『写真集 大谷』平成12年(4刷)

『朝日新聞』 昭和57年8月21日付夕刊 10面

『朝日新聞』 平成16年9月21日付朝刊 33面]


マサキの生垣
マサキの生垣(千葉県八千代市)

築地塀
築地塀(谷中)

土壁の塀
土壁の塀(千葉県八千代市)

レンガ塀
レンガ塀(千葉市幕張)

トタン塀
トタン塀(千葉市幕張)


2005年7月4日更新


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