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「ぶらり歌碑巡り」タイトル

アカデミア青木

http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-43.html
ラジオ版・ああ我が心の童謡〜唱歌編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-50.html
ラジオ版・ああ我が心の童謡〜童謡編
まぼろし放送にてアカデミア青木氏を迎えて放送中!

まちづくりの門

第37回 『かごめかごめ』

 日溜まりの公園で、暮れなずむ街角で、夜のしじまの中で、ひとり「童謡」を口ずさむ時、幼き日々が鮮やかによみがえる…。この番組では、皆様にとって懐かしい童謡の歌碑を巡ってまいります。今回は、『かごめかごめ』です。
 空き地や路地裏で「かごめ、かごめ、かごの中の鳥は…」と遊んだのはかなり昔のことですが、近所の子と手をつないだ時の感触は今でもはっきりと覚えています。この歌は『通りゃんせ』同様、古くから歌われてきた「わらべ歌」です。



『かごめかごめ』(わらべ歌。作詞者、作曲者共不明。歌詞は広島高等師範学校附属小学校音楽研究部編『日本童謡民謡曲集』[目黒書店、昭和8年]の千葉県野田町[現、市]地方のもの)

 

碑

 

 籠目 籠目
 かごの中の鳥は
 いついつ出やる
 夜明けの晩に
 鶴と亀とすべつた
 「後の正面誰れ」

 

 今日よく歌われている上記の歌は、地元の作曲家・山中直治*が採譜したものですが、現在、これにちなんだ像が野田市の東武野田線・「清水公園」駅前に建てられています。清水公園へと向かう道のちょうど入口に2体の石像が置かれていて「まちづくりの門」を形作っていますが、ここの北側の像が『かごめかごめ』の像なのです。像は目隠しをしてしゃがみ込む子供の姿をしていて、台座には歌詞と「かごめかごめの歌は野田から全国へと広まったといわれています」という解説が刻まれています。
 実は、野田地方の歌詞が全国に広まったのは『日本童謡民謡曲集』に掲載されたことがきっかけで、それまでは各地に様々な『かごめかごめ』がありました。現に、この本には野田の他に、富山地方、愛知県三河地方、山口県熊毛郡周防村の、続編の『続日本童謡民謡曲集』には広島県山縣郡加計町の『かごめかごめ』が収録されています。
・富山地方
「かごめかごめ かごの中の鳥は いつでてあそぶ よあけごろに あかつきかけて なにをかつぐる たれがうしろ」
・愛知県三河地方
「かごめ かごめ 籠の中の鳥は 何時出て遊ぶ 夜明けの頃に 暁かけて 何とか告ぐる コツケラ コツケラ コツケラコ」
・山口県熊毛郡周防村
「かごめやかごめ 籠の中の鳥は いつもかつもおりやる 四日の晩に 鶴と亀がすべつた 誰がうしろ」
・広島県山縣郡加計町
「かごめ かごめ 籠の中の鳥は 何時何時 出やつた 夜中のうちに 誰がうしろ」

説明書き

 『かごめかごめ』の歌は、今日なぜ野田のものが主流になったのでしょう。そのヒントは『日本童謡民謡曲集』の序の中にあるように思えます。
 「(前略)本来、国民教育に於ける唱歌教育の使命は、国民的歌曲に依り、国民的情操を陶冶するを以て要旨とすべきである。然るに従来の唱歌教育は、余りに西洋模倣に囚はれ、祖国の童謡、民謡などは殆ど研究されて居らぬかに見える。甚だしきは童謡を排撃し、学校唱歌を毒するものとして之を忌避する者すらあつた。然し乍ら西洋音楽に於て、国民的情操の陶冶さるべき道理は断じて無い。吾々は先づ以て祖国の歌、郷土の民謡、童謡を重視し、芸術的にも、教育的にも価値あるものは、先づ第一に之を採り、更にその歌詞、旋律の何れかに欠点あるものは之を補ひ、猶ほ足らざる所は之を創造し、以て新時代に適する健全なる国民歌を建設して之を教育に活用すべきである。然るに、悲しい哉、従来その歌詞だけを集めた俚謡集はあるが、旋律を全国的に蒐集したものは一つも無い。これ畢竟、旋律を譜にとることの至難なるに由るのであらうと思ふ。慥(たし)かに、或る一部の民謡は之を譜にとることの寧ろ不可能なるものがある。併し、吾々は、せめてそのアウトラインだけでも知ることは、郷土の民謡を理會し、国民的旋律を研究する上に於て、将また国民歌を創造する上に於て、裨益する所、蓋し尠くあるまいと思ふ。(後略)」
 また、同校の主事は「『日本童謡民謡曲集』の編纂成る」いう一文を寄せて、こう述べています。
 「我が国の小学校に於ける唱歌教育の改革は諸種の方面から努力せられて居る。併し我が山本壽君の『国民的歌曲により、国民的情操を陶冶』せんとする努力は其の中に於て吾等の最も着目すべき所であると思ふ。一九二七年のドイツに於ける国民学校音楽教授の教則に『音楽教授は生徒の生活を喜悦と楽天的気分とを以て満たし、音楽に対する愉快と愛好とを覚醒し、かくしてドイツの歌謡とドイツの音楽の世界に於ける路を児童に開くべきである』と云つてある。日本の歌謡、日本の音楽の世界に於ける路を児童に開拓することが我が国小学校に於ける唱歌教育の最も重要なる狙ひ所であるべきことは吾等の疑はぬ所である。(中略)吾等は昭和の教育、新日本の教育の建設を企てつつあるものであるが、山本壽君の努力により、先づ新日本の唱歌教育の建設の第一石が投ぜられたことを慶祝し、更に第二回、第三回の企てに全国同志者の御援助を希望してやまぬ。」
 戦前のナショナリズム高揚の動きに乗って、全国に数ある『かごめかごめ』のうち、地理的に東京に近い野田のものが、一種の「国民歌」として当局に採用され、教育現場を通じて全国津々浦々に広められたようです。多少私事めきますが、昭和17年当時名古屋の国民学校の1年生だった小生の老母は、学校の体育の時間にこの歌で『かごめかごめ』をしたと教えてくれました。そして戦後も引き続き、学校の授業やマスコミで取り上げられた結果、野田地方の歌詞が全国的に定着したと考えられます。
 『日本童謡民謡曲集』が世に出る18年前、『春の小川』、『故郷』の作詞者・高野辰之は「高野斑山」の筆名で『俚謡集拾遺』を世に出しています。(大竹紫葉との共編)この本は、文部省文芸委員会が編纂した『俚謡集』から漏れた俚謡や全国の童謡を集めた本で、こちらにも古い形の『かごめかごめ』が収録されています。残念ながら、五線譜は付いていませんが、東京の「籠目かごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、ツルツルつゥべッた」という詞も入っています。もし当時、岡野貞一ら作曲家の協力を得て五線譜化できていたなら、今日歌われる『かごめかごめ』は、この東京バージョンになっていたかもしれません。

*山中直治 やまなかなおじ。音楽教育家。作曲家。明治39年、千葉県東葛飾郡梅郷村(現、野田市)生まれ。大正14年、千葉師範学校を卒業し、野田尋常高等小学校に赴任。教鞭を執る傍ら、童謡や民謡の作曲に従事。昭和7年、コロムビアの専属作曲家となる。同10年には船橋尋常高等小学校に転じる。代表作は『こんこん小山の白狐』(野口雨情作詞)、『世界の子供』(北原白秋作詞)、『野田音頭』、『船橋音頭』など。昭和12年に病没。享年31。


[参考文献

広島高等師範学校附属小学校音楽研究部編『日本童謡民謡曲集』柳原書店 昭和63年(復刊版)

同『続日本童謡民謡曲集』柳原書店 昭和63年(目黒書店、昭和9年の復刊版)

高野斑山・大竹紫葉編『俚謡集拾遺』三一書房 昭和53年(六合館、大正4年の復刻版)

野田市郷土資料館『よみがえる山中直治 童謡の世界』平成8年]

場所:千葉県野田市・東武野田線「清水公園」駅前


2005年10月7日更新
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[ああ我が心の童謡〜ぶらり歌碑巡り]
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第35回 『あの町この町』
第34回 『黄金虫』
第33回 『四丁目の犬』
第32回 『七つの子』
第31回 『背くらべ』
第30回 『浜千鳥』
第29回 『通りゃんせ』
第28回 『宵待草』
第27回 『案山子』
第26回 『仲よし小道』
第25回 『七里ヶ浜の哀歌』
第24回 『城ヶ島の雨』
第23回 『どんぐりころころ』
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第20回 『叱られて』
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第18回 『砂山』
第17回 『兎と亀』
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第10回 『靴が鳴る』
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第3回 『荒城の月』
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[ああわが心の東京修学旅行]
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