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ビールビン型万年筆
第9回「子ども万年筆」の巻
日曜研究家串間努


万年筆の贈答文化

三色万年筆

 万年筆が入学祝いの定番にならなくなったのはいつごろのことだろう。小学校にあがるときは孫にランドセルをプレゼントし、中学に進学するときは腕時計か万年筆をあげる習慣が昭和50年代までは確かにあった。万年筆や腕時計は大人の象徴であり、それらを身につけることで、小学生の子どもとは違う、まだ大人にはなっていないけれども大人の見習いになったくらいのシンボルであったわけだ。デジタル時計が100円ショップで買える現代では、子どもにとっての腕時計の価値は暴落している。いまだったら「携帯電話」がその地位にあたるのだろうか。
東京タワーシャープ万年筆 私が学童だった昭和40年代後半から50年代でもまだ、万年筆への憧れは生きていて、「中一時代」や「中一コース」という、学習雑誌の年間予約購読の特典に、ピンクレディーや王選手など、当時の『スター』のサイン入り万年筆が付いていた。そんなに高級でもない、景品としての万年筆なので、すぐにペン先がだめになったり、インクが出なくなったりしたが、それでも僕らは誇らしげに学生服の左胸ポケットにそれを差して(1週間くらいは)悦にいっていた。年間購読できるような家庭は裕福であるので、一応、ステータスであったのだ。しかしもう昭和50年代になるといろいろなモノがあふれていたので、うつろいやすい子どもたちの関心はスケボーに向けられたり、『ブルワーカー』という通販広告が主体の肉体増強器具に行ったりするのである。
 子どもが万年筆をもちたいというのは大人の仲間入りをしたいということだ。子どもにとって、大人は脅威の存在であり、それを越えていくために大人の真似をすることがある。それは一見、カワイイ背伸びに見えるが、心理学的には、モデルとなる人物を設定し、その人の行動を観察、模倣することを通じて自分なりの行動を確立する社会的学習のうちの、「観察学習」だ。しかし、大人の真似をし続けているあいだは、まだまだ子どもであり、そんな子どもたちのために通販業者はおもちゃのような万年筆を次々に開発しては、広告掲載していったのであった。

装置萬年筆万年筆の歴史

 簡単に万年筆の歴史をみてみよう。
 万年筆の原形は、中世ヨーロッパで使われていた羽ペンで、不便さを解消すべくペン先に耐摩耗金属を付け、インクを軸の中に貯えるなど様々な試みが行われた。
 1809年にイギリスのフレデリック・B・フォルシュが、ペンを取り付けた金属パイプの軸にインクを貯え、それをバルブの開閉でペン先へ送り出す方式の筆記具を発明。これが万年筆の元祖といわれている。同年、イギリスのブラマーも鉄製パイプの中にインクを入れ、その先に短くカットした羽ペンを取り付けたものを作り、これをファウンテンペンと名付けた。
 現在のような毛細管現象を利用した形になったのは、1884年にアメリカのウォーターマンが作ってから。日本では明治17年、横浜のバンダイン商会が米国からステログラフ(スタイログラフィックペン)を輸入したのが最初。
 国産の試みとしては翌年に日本橋区本石町の時計商であった大野徳三郎が輸入品の3分の1の価格の万年筆を開発、「万年ふで」と名付けて、ここで初めて「万年筆」という名称になった。明治30年には針先泉筆と称し挽物師池田寅次郎、伊藤農夫雄が万年筆を製作し、38年に「スワン万年筆」として発売された。
 丸善は明治28年にウォーターマン社の金ペン付き万年筆を、30年にペリカン万年筆を、40年にオノト万年筆をそれぞれ輸入発売している。明治44年にはセーラー万年筆が国産化、大正7年になると並木製作所(パイロット万年筆)が登場。両者とも船関係のネーミングであるところが面白い。大正8年にはプラチナ万年筆が通信販売で万年筆市場に参入した。
 戦後になると昭和23年以降からボールペン産業が勃興し、万年筆製造の技術は安定してきたが、安価で手軽な多種類の筆記具の登場で万年筆は高級な筆記具として、日常生活からだんだん遠ざかっていくことになる。
 昭和40年代になると、キャップレス万年筆が登場したり、大橋巨泉の「はっぱふみふみ」のCMで有名な「エリート」など短めのタイプが主流になり、中学・高校生向けに大量生産の安価なタイプが出まわるが、水性ボールペンの登場や電話の台頭による手紙文化の衰退などで、だんだんと万年筆を持つ機会が少なくなっていった。

子ども向け万年筆の変化

マスコットペン祭

 筆記用具としてオーソドックスな万年筆は、高校生以上の大人向けである。そう考えれば、小・中学生向けのものは、書き味がなめらかとか、軸の高級さというよりは、安価であることがまず要求される。そして子ども向けであるから、彼らの目をひきつけるような一ひねりが欲しい。そこで、昭和20年代後半には、日時計をつけたり、ライトをつけたりしてプラスワンの工夫をしていた。軸に万年カレンダーを入れたり、機能を高めてシャープペンつき、赤・黒、2色のインクがつかえるものはもはや定番であった。
 昭和30年代になると機能性よりもファッション性が重んじられるようになり、東京タワーやコケシやビール瓶などをモチーフにした、ファンシー万年筆が登場する。

マスコット・ペン

 昭和37年に鈴木ペン先製作所から「変形万年筆(ピエロ、和傘、一升ビン、ビール、ベビーこけし)」が発売されているが、しかしビール瓶型は昭和30年にすでにカービン万年筆社から発売され、これが元祖だと思われる。東京タワー建設の年、昭和33年には豊年万年筆株式会社が「趣味の万年筆(傘型、ひょうたん型、ビール瓶型)」発売しているので、よく通販広告にでていたものは、これを卸し問屋や通販業者が仕入れ、「マスコット万年筆」と銘打って販売していたのではないだろうか。ラジオでも赤白ロケットの形がでてくるのがこのころで、プラスチック工業の成形技術の発達や大量消費によるコスト低下で、「型モノ」がどっと昭和30年代なかばから輩出してくるのである。

珍しい万年筆

 読者のなかにもこの広告をみて、「あった、あった」と思い出されるかたも多いに違いない。般若の面やドクロから目が飛び出すキーホルダー、麻雀パイのキーホルダーとともにこのような変形万年筆はどこの家の引き出しにも転がっていたはずだ。
 子ども世界の中では、毛筆はもちろんのこと、万年筆で手紙や書類を書く習慣はすでに廃れた。万年筆が「大人の象徴」としてのカリスマ性を失ったのか、それとも機能的でないものを、生活の合理化で知らず知らず排除しているのか。時代が進めば文化も変わるということを、「子ども万年筆」不在という現実が如実に示している。

オリジナル


2003年9月22日更新


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