「まぼろしチャンネル」の扉へ
「番組表」へ 「復刻ch」へ 「教育的ch」へ 「東京カリスマch」へ 「日曜研究家ch」へ 「あった、あったch」へ 「再放送」へ 「ネット局」へ
子どもの頃の大ギモン掲示板
懐かし雑貨店「アナクロ」
ノスタルジー商店「まぼろし食料品店」
思い出玩具店「昭和ニコニコ堂」
チビッコ三面記事
「秘密基地」の時代
まぼろし第二小学校
珍商売あれやこれや
秘宝館
掲示板
マガジン登録
メール
まぼろし商店街
まぼろし洋品店

「三面記事」タイトル


第5回「素人の催眠術はキケンなり」の巻 串間努


 新聞に寄りますと!

新聞見出し

 広島市私立高校の文化祭で心霊術が出し物として取り上げられ、実演披露で見物に訪れた他校の女子生徒が術にかかり、とけないまま半狂乱状態が三日間も続いた。学校側は心霊術関係の展示だけということだけで許可していたが、生徒たちが実演として心霊術をかけていたらしい。指導にあたった心霊術の教団は「悪霊を追っ払う過程にすぎない」と、「異常」を認めないが、オカルトブームに名を借りた、「危険な遊び」に警告の声が上がっている。
 騒ぎが起きたのは、広島市楠木町のS男子高校。同校には市内の宗教法人「S教団」広島小修験道場で「心霊術」を修行している生徒が十人近くおり、この生徒たちが九月二十八日開かれた学園文化祭で「心霊研究コーナー」を設け、写真、説明書などの展示や、術のかけ方の実演をした。実演は同道場が派遣した指導者のもとで、道場に通っている他校生も加わり、男女十数人が術の実演者となって行われた。
 午後三時ごろ見物に来た他校の高校生たち五人に術をかけた。このうち四人は一時朦朧状態になったが間もなく術がとけ、元に戻った。しかし、他校の女子高校生から術をかけられた同市内の私立女子高校一年A子さんだけは元の状態に戻らなくなった。実演者がかわるがわる解こうと試みたが成功せず、騒ぎでかけつけた教員達も手がつけられず、やむなく道場に運びこんだ。
 約五時間後の午後八時頃、道場からの連絡でA子さんの両親が駆けつけたが、A子さんは両親にも反応を示さず「ウォーン、ウォーン」と動物のような声でうなったり、「わらわは」「父上」などの言葉を口走るばかり。家に連れ帰っても、突然倒れたり、わけの解らない言葉を口走る状態が続き体温も四十度以上になった。睡眠薬を飲ませやっと寝かせ、無理矢理口に押し込んだ食事をかまずに飲み込むなど、半狂乱状態が三十日まで続き、たっと一日になりほぼ元に戻ったものの、まだ当分学校を休み静養をしなければならない状態だという
(昭和49年10月2日 毎日)

 なぜ、催眠術が解けなかったからといって、体温が上昇するのか科学的に納得がいかないが、そんなことを言っていたら「わらわは」を口ばしるのはもっとおかしいので、あまり突っ込まないでおこう。
 催眠術も何かの治療に応用するならともかく、「心霊」という現代科学では不確かな領域に用いたり、意識、無意識を問わず、他人が人間の精神世界に踏み込んではいけないということだ。
 では、なぜ素人や不慣れな人がやると催眠術は危険なのだろう。
 催眠術自体に、危険はないが、暗示の良し悪しによって、危険性が生じることがあり得る。その良し悪しによって、自己を覚醒させる時に、催眠のショックが残る。催眠術の中では「前世療法」などが、暗示の残存のため危険な場合がある。宗教は集団催眠であり、またセールスマンなどに、たいして欲しくもないものを買わされてしまうのは、ひとつの催眠術である。このように催眠術は現在でも、日常で多く使われている。催眠術とは暗示をいれることであり、それで、マインドコントロールできてしまう。そのため、かける相手によって、危険が生じることがある。おそらく、慣れない人が催眠術をかけると、暗示をかけることも困難だが、その暗示をとく過程で暗示が残り、被験者に、ダメージが残る場合があるのであろう。歴史的にみても、催眠術を使ったさまざまな事件が多発したために、「素人や不慣れな人がやると危険だ」という意識が広まっているが、明治時代などは、催眠術は多くの人が使用している。これらのことから、「催眠術は素人や不慣れな人がやると危険だ」と必ずしもいいきれない。そして、資格などがなくてもある程度、修行を積んだ人には催眠術はできてしまう。また、催眠術を行って、精神的に障害が残ることは、暗示をとく過程で失敗したりしない限りはありえない(横浜催眠心療センターの相談窓口に電話取材の結果をまとめました)。
 ボクも、中学生のころに初代引田天功が催眠術ショーをやっているのを観て、催眠術で「おねしょを止めてもらいたい」(中学生になってもしていたのです)、「逆上がりができるようになりたい」(高校生になるまでできなかったのです)と願っており、友達に5円玉を振り子にして貰って「あなたはだんだん眠くなる」をやってもらったことがある。まったく効かなかったけれど、中途半端にかからなくてよかった。
 似たような無意識下をコントロールするもので、睡眠学習というのがあるが、この機械を発明した社長はもともと催眠術をやっていたかたである。
 催眠術で他人をコントロールできるとなると、なにか、心ないことをしてしまいたくなるヒトもいるようで、催眠術の日本での普及の歴史をひもとくと、やはり性的に悪用する術者も現れたようである。

◆催眠術の概略史

 催眠術が広まる背景には、常に精神世界への興味と、超常現象への批判があった。
 日本にはじめて、催眠術が姿をみせるのは、明治20(1887)年前後。そのきっかけとしては、ふたつの説が存在する。ひとつは「明治維新前後、欧米に留学していた日本人が伝えたというパターン」(『催眠術の日本近代』(一柳廣孝/青弓社/1997から)そして「来日した医学系知識人が伝えたというパターン」(『催眠術の日本近代』(一柳廣孝/青弓社/1997から)である。それぞれの説にも幾つかの状況があり、催眠術が日本にはいってきた由来は明確ではない。そして、この催眠術は民間療法として、少しずつ世間に浸透していく。当初、催眠術を扱う医師たちは、西洋医学との大きな相違に戸惑いを隠せなかった。しかし、東京帝京大学の高名な医師たちによる、催眠術での実験効果が発表され、催眠術は医療の新たな方法として、見出されるようになる。こうして、明治23年には、我が国で初の催眠術の病院が設立されるのである。
 この催眠術ブームに陰りがみえはじめるのは、催眠術を悪用した犯罪の増加と、神道系宗教の拡大によるものだ。催眠術が日本に登場してから、その勢いは凄まじいものだった。しかしそれに伴って、治療と称し、女子患者にいたずらを行う「山師的医師」がそこらじゅうに出現した。これが催眠術ブームが沈静化される主な原因ではあるが、この時期に発展した新宗教の存在に対するマスコミの批判も見逃せない。これらのオカルト的なものに対する批判が、催眠術の不可思議な治療効果の評価へとつながった傾向がある。以上のような背景を経て、催眠術ブームの熱は明治30年前後を境に、冷めていくのである。

 この熱が再び上昇してくるのは、明治36(1903)年。このブームの発端は同年(明治36年)に竹内楠三が大学館から出した『学理応用催眠術自在』、『実用催眠学』、『心理作用読心術自在』などである。これら催眠術関連の書籍がベストセラーとなり、類する催眠術の教授によって執筆された書物が次々と刊行された。また、民間で催眠術を扱っていた団体の活動も通信教育を基盤に盛んになってくる。当時の催眠療法は、たいへん高価な治療だったため、団体の活動はそれなりの利益をえて運営された。団体は会員増大をはかるために、以下のような対策をとっていたことが、『催眠術の日本近代』(一柳廣孝/青弓社/1997)からわかる。

雑誌『文芸倶楽部』の広告
(明治43年4月)
図版提供:アカデミア青木氏
※上下二点とも
『文芸倶楽部』広告

 「その戦略は(略)たとえば「懸賞」と「免状」。大正六年(1917年)の帝国催眠学会の場合には、同学会刊行の書籍の最後に、次のような「謹告」を掲載する。「一、将来有益なる実験報告を寄せられたる各位に対しては報告の内容を認定の上其優等者には本会の許す限り懸賞的に薄謝(一等金時計、二等銀時計、三等万年筆以下適宜之を定む)を贈呈仕るべく候 ニ、尚読者にして『卒業証書』を望まるゝ方益々増加仕り候間今後は各位の御実験談と共に認定料金五十銭を添え申し込まるゝ時は本会に於て認定の上直ちに『卒業証書』を交付仕るべく候(山口三之助述、生方賢一郎著『少年催眠術』、大正六年、帝国催眠学会)」。こうして、催眠術の団体はその数を増やし、それに比例するように、その市場は拡大されていくのである。
『文芸倶楽部』広告 しかし、催眠術は諸刃の剣である。使い方を間違えれば、とんでもない事態をうみだす可能性を秘めている。この時期、民間療法と正式な医療の違いが曖昧であった。そのため、医師の資格をもたない、催眠術が多く行われていた。事実、それに関連した事件が数多く発生している。その中でも男性の性欲を、「催眠術」を使用して達成する、いわゆる性的な暴力に催眠術が使用された。それらを題材にした森鴎外の「魔睡」(明治42(1909)年6月、「スバル」)が発表され、女性にとっての催眠術の暴力性が大きくなるのである。(この「魔睡」とは明治20年代に「催眠術」の医学用語として使われていたものである)また、科学では説明のつかない現象などを解釈するために、催眠術はたびたび用いられたため、そのイメージはどこか如何わしさをぬぐえなかった。そのようなことから、催眠術の効果を支持する人々がいる反面、それを抑制する動きはしだいに大きくなっていった。明治41年9月29日には、「警察犯処罰令」が公布される。これによって、催眠術は法的に罰せることが可能になる。しかし、その規制の公布後も、催眠術の位置づけの不明確さから、その事件の対象が定まらず、催眠術の勢いは衰えなかった。
 催眠術が衰退していく引き金となるのが、明治43(1910)年〜44年にかけて起こった「千里眼事件」である。これは催眠術をかけられて、透視や念写などの能力を有するようになった、御船千鶴子と長尾郁子の二人の女性が中心となった事件である。彼女たちの登場で、催眠術は多くの学者たちの研究対象となった。メディアはその話題を積極的に取り上げ、京都や大阪などでは公開実験が行われた。しかし、催眠術によって引き起こされる現象を全て科学で立証することができずに、催眠術を否定するメディアや学者たちも増えていくのである。そして、明治44年1月に御船千鶴子が自殺、同年2月に長尾郁子が病死することで、千里眼と早死にが結びついた噂などが広まり、催眠術は負のイメージが大きくなる。報道も、催眠術を否定的にとらえるように変化していき、催眠術ブームはしぼんでいった。
 その後、催眠術はその名を「霊術」と変え、法の規制をくぐりぬけ、細々と存在する。それに平行して、その類の犯罪も伝えられた。昭和5(1930)年の11月、警視庁は療術行為に対する取締令を公布。地方にもそれは浸透し、「霊術」さえも法の規制の対象となる。崖ぷっちにたたされた催眠術は、「神力」として自ら、宗教の中に溶け込むことで、その存在を保つのである。戦中には、「国家騒動員法」の制定などにより、催眠術は国民をコントロールする手段としての色を濃くする。それとともに、民間による催眠術は消滅していく。戦後、軍隊や国家の統制がなくなり、催眠術の居場所は新興宗教の中に移行していく。現在、催眠術は自我の中に埋没された、新たな自分を見つける場や、高齢化社会が進む中で、死という未知の世界への高まりから、「前世療法」として宗教的な意味合いの強い場で活躍している。

参考 『催眠術の日本近代』(一柳廣孝/青弓社/1997)

●書きおろし


2003年2月18日更新
ご意見・ご感想は webmaster@maboroshi-ch.com まで


第4回「先生やりすぎです」の巻
第3回「懸賞の賞品で詐欺!」の巻
第2回「元祖! 飽食時代の本末転倒」の巻
第1回「『2B弾』のイタズラ」の巻


「日曜研究家チャンネル」の扉へ